池田 光政(いけだ みつまさ)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田家宗家3代。
姫路藩主・池田利隆の長男。母は徳川幕府2代将軍・秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴子。当時の岡山城主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。幼児のころ、父と共に徳川家康に会見したことがあり、そこで家康に「祖父の池田輝政によく似ている」と言われ、脇差を与えられたという。
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元和2年(1616年)父・利隆の死により姫路藩42万石の藩主となり、当初は幸隆(よしたか)と名乗った。翌元和3年(1617年)幼少を理由に鳥取藩32万5000石に転封となる。元和9年(1623年)3代将軍徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗る。
寛永9年(1632年)岡山藩主・池田忠雄(光政の叔父)が死去し、従兄弟で忠雄の嫡男・池田光仲が幼少のため山陽道の要所岡山を治め難いとし、光政が岡山藩31万5000石へ、光仲が鳥取藩32万5000石に国替えとなった。以後、「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。正妻に千姫の娘・勝子を迎え徳川氏との結びつきを強くした。また、正室の勝子とは最初の頃はあまり良好な夫婦関係とはいえなかったが、その後は傍目も羨むほどの仲の良い夫婦になったという。
この国替えについては、名目上は上記の通りである。しかし実際には、輝政の嫡男・利隆、嫡孫・光政の池田宗家に主要幹線道側を与える代わりに、輝政と家康の娘・富子の子であり将軍家の外戚で親藩格である忠継・忠雄の家系の光仲に岡山藩より石高が高い因幡・伯耆二国を領する鳥取藩を与えることで事態を収拾しようというという幕府の思惑が働いたとみられる。
寛文12年(1672年)藩主の座を長男・池田綱政に譲り隠居。天和2年(1682年)に74歳(数え年)で亡くなるまでの10年間、藩政に影響を持ち続けた。